【インタビュー】二階堂ふみ 安らかな日常こそが19歳を非日常へといざなう

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二階堂ふみ『私の男』/Photo:Naoki Kurozu
  • 二階堂ふみ『私の男』/Photo:Naoki Kurozu
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  • 浅野忠信×二階堂ふみ『私の男』ポスター -(C) 2014『私の男』製作委員会
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  • -(C) 2014「私の男」製作委員会
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血まみれ、泥まみれ、エキセントリックな役柄を演じることが多いこともあってか、プライベートでも突飛なキャラクターだと思われることが多いという。「よく『普段も激しそうだね』って言われます」と苦笑するが、二階堂ふみが普段から何より大切にしているのは“エキセントリック”とは対極とも言える「ごく小さな日々の営み」だという。

「割と何気ない日常に喜びを覚えるタイプです。日々の静かな営みの中での小さな発見や出来事、人と人との関わりで生まれる感情が大事だなと感じています。意外とそういう何気ない日常的な部分が、(役で演じる)クレイジーなエッセンスと繋がってるのかな? とも思います」。冷静に、そんな言葉で自身と役との関係性を分析する。

公開したばかりの映画『私の男』は、そんな彼女のイメージをまた大いに誤解させそうな“烈しさ”を孕んでいる。原作は桜庭一樹の直木賞受賞作。10歳で家族を失った少女・花と彼女を引き取った遠縁にあたる淳悟(浅野忠信)が互いの孤独、空白を埋めるかのように求め合い、堕ちていくさまを鬼才・熊切和嘉が鮮烈に切り取った。

原作小説、熊切監督、そして花という役柄、本作にまつわる全ての出会いを「運命」と言い切り、流氷が浮かぶ極寒の海で文字通り、その運命に身を捧げた19歳の目は何を見据えていたのか?

原作との出会いは中学時代。以前より桜庭さんの小説が好きで、本作も発売直後に買って読んだが、当時は映像化は無理だろうと思っていた。数年後、初めて熊切監督と顔を合わせ「この方と絶対に一緒に仕事しないといけない」と直感した。それからさらに約2年、熊切監督の手による本作の映画化が動き出し、彼女の元にオファーが届く。

「お話をいただいてから(撮影まで)1年ほど時間があって、その間に別のお仕事もあったんですが、ずっと自分の中で『私の男』を温めていました」。

淳悟との関係を、同じく親戚である大塩(藤竜也)にただされ、道徳を説かれるが、花は激しく反発し、思いの丈を叫び、流氷を蹴って極寒の海へと身を投げる。撮影では実に4度も海に飛び込んだ。スクリーンからは寒さのみならず、熱した鉄の塊を氷水にひたした瞬間のような、彼女が発する凄まじい“熱量”までもがひしひしと伝わってくる。この圧巻のシーンに際しても、恐怖も躊躇もなかった。

「やっぱり、スクリーンに出ると思うんです。足場の悪い流氷の上で2人が追いかけ合う姿には、スタジオやセットでは出せない空気感がある。リアルだからこそ出せる息づかいや足元のふらつき、空気があると思うんです。あれが実はお湯で、流氷に見せかけた発泡スチロールで、CGを加えたものだったら違うものになっていたと思いますし、役者がどんなに技に磨きをかけても伝わらない臨場感、ピリピリした感じがあると思います。それがいいのか悪いのかって聞かれても分かりませんが、私は自分で出来る限りのことはしたいんです。寒いのが嫌だっていう気持ちもあるんですが(笑)、それ以上に良い作品を作れるという喜びが大きいんです」。

“禁断の愛”“タブー”などと言い表される花と淳悟の関係や家族の在り方、花という役柄のパーソナリティについて語るとき、二階堂さんはたびたび「もしかしたら…」という言葉を口にした。世間の常識や道徳といった基準で決めつけようとはしない。様々な角度から見つめ、思考を続け、目の前のものを受け容れる。冒頭で紹介した「日常」に対する視点とも繋がるが、こうした何事も決めつけようとしないスタンスにこそ、彼女が時に、狂気さえ帯びた非日常的な役柄にすんなりと溶け込んでしまう秘密があるのかもしれない。

「元々、私は作品に入るとき、自分の役にあまり共感しようと思いませんし、役に入り込んだり、全てを理解しようと思わないんです。特に、花と淳悟の2人に関しては『ある』とか『ない』ではなく、深いところで2人だけで繋がっている関係だと感じながら見ていました。人間が生活を営む中でいろんな約束事を決めていき、そうして文明が発達してきて、その約束事の上では2人の関係は“タブー”というキャッチで捉えられてしまうけど、そこには正解なんてないのかもしれないと思いますし、でも2人が小さな世界で生きていることは確かで、それこそがもしかしたら“純愛”なのかもしれないと思います。私が中学生であの原作を読んだと言うと、『早熟だね』とか『衝撃的だったでしょ?』と言われるんですが、逆にあの頃って“男と女”とか“家族”について『こうあるもの』なんていうことは考えない時期で、だからこそ2人の存在をすんなりと受け容れることができたんです。その感覚は、実はいまもあまり変わってなくて、だからこそ今回も素直に演じられたと思います」。

作品ごとに、唯一無二と言える強烈な存在感を見せるが、一方で「演じるということに固執していない」「“女優”というのは単なる肩書き」とも。その真意は?

「毎回、現場に行くたびにいろんな勉強をして、何かを吸収したり、時にそうしたものを全て忘れたりということをしていますが、『ガマの油』で初めて映画の現場に行ってから一貫して持ち続けているのは、ひとつの映画を作る上で、監督がいて、俳優がいて、録音部、撮影部、照明部、衣裳部、メイク部がいて、私はあくまで俳優部のひとりとして作品に参加しているということ。だから、自分のキャラクターがどう映るか? ということではなく、何より作品のために自分に何ができるのか? というのが一番大事なんです」。

先述の流氷からのダイブシーン然り、演じることに恐怖を感じないのは「作品を作る現場というのが自分にとって大好きな場所だから。そこでやることに対して『怖い』とは感じない」。一方で、偽らざるこんな思いも口にする。

「映画について伝えるために、いろんな場に自分が出ていく中で、自分のキャラクターが独り歩きしそうになることに対して恐怖を感じることはありますね。本編が完成してもそれを世に伝えるプロモーションも含めて映画作りの一環だと思いますが、そこで取材される方に『二階堂さんてこうですよね?』と定義されたとき、それが自分とあまりにかけ離れていると、自分が“消費”されていってしまうような恐怖を覚えたりもします。だからこそ、こういう場で、自分の言葉でちゃんと自分の考えや映画への思いを伝えていかなくちゃいけないなとも思います」。

この4月から、大学に通い始めた。「課題が結構、大変ですね。早くも進級が危ういんですが…」と苦笑するが、同世代の学生たちとの関係は、撮影現場とはまた違った刺激を彼女にもたらしているようだ。大学で接するような同世代の若者たちが足繁く映画館に通うようになるにはどうしたらいいか? 最近はそんなことを考えているという。

「まあ、自分としてはのんびりとやっていけたらいいんですが…(笑)。やっぱり、私自身も過去の作品にすがっていちゃいけないし、日本映画界もそうで、過去の名作に頼るのではなく、新しい良い作品を次々と出していかないといけない。そういう環境ができればと思いますし、若い人に観てもらうにはどうしたらいいのか? といろいろ考えてます。最近、Twitterを始めたのも、そういう理由からなんです。時代と共にアプローチは変わっていくと思いますが、良い作品を世の中に向けて出ていきたいです」。

彼女の歩みと共に日本の映画界が変わっていく。そんな未来を期待したくなる。
《photo / text:Naoki Kurozu》

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