なぜ官兵衛が有岡城に?その背景を考察
――村重と官兵衛のエピソードといえば「有岡城の戦い」ですが、それ以前の2人の関係性はどうだったのでしょう?
「有岡城の戦い」以前の2人がいかなる関係であったかというのを詳細に追えるものは中々ないけれども、そもそもの話として、有岡城に官兵衛殿が遣わされるっていう意味が非常に大きいのではないかと思う。秀吉様の陣営で一緒に戦っていたような人物で、官兵衛殿は播磨国出身の国衆、村重殿も摂津国の城主だったということで、2人とも割と新規で織田陣営に入ってきたことなど、境遇とかいろいろ似ているところもあって、想像の域なれど、親しい関係があった?とも思いまする。
――官兵衛が幽閉されてしまうびっくりエピソード。そういうことはよくあったのでしょうか?
使者だったら返すか殺すかっていうのが慣習としてあった中で、あえて捕えて罪人みたく扱って幽閉するってことが「何故なんだろう?」って。これも一つ大きな謎。『黒牢城』ではこの幽閉が謎解きにも関わってくるのが面白い。

――「有岡城の戦い」の時、石田三成は18歳くらいだと思いますが、何をされていましたか?
もう思いっきり秀吉様のそばに仕えて、取次役を務めていた。色々な人たちの連絡役をやっているようなポジション。昔の人たちは、手紙とか直接偉い人本人に送れないので、偉い人のすぐそばにいる人に手紙を送るけど、その手紙の宛先になっていたのが、石田三成!!!
――石田三成と、村重と官兵衛それぞれの関係性やエピソードがあれば教えてください。
三成は取次役ということで、(有岡城の戦いの時は)そもそも軍隊率いて戦うっていう立場にはまだなっていないので、村重殿との接点はない。ただ、有岡城の後、村重殿は道薫という名前をつけて茶人として過ごすようになるが、どこで過ごしていたかっていうと、大坂の堺。そこで村重殿は最後、茶人として余生を送るわけだが、ちょうど村重殿が亡くなる年、天正14年(1586年)。この年に三成が堺の奉行になっている。堺を統括する役割になっていて、今まで2人とも人生が交わってはいないが、最後の最後、支配者としての三成と、その地で最後亡くなる村重殿というのが重なる瞬間、これがバトンタッチみがあって面白いって考えておる。
官兵衛殿に関しては、三成と非常に有名なエピソードがある。三成も官兵衛殿も朝鮮出兵に行った時に、三成が奉行職として統括役みたいなことをやっているけど、官兵衛殿、めちゃくちゃ三成と仲が悪いというか、気に食わなかったことがあったっぽくて…。で、ある日、三成が官兵衛殿の屋敷に、「ちょっと作戦会議しましょう」みたいな感じで行ったら、官兵衛殿ずっと囲碁やってて、三成を無視して、三成めっちゃブチ切れたって話があったりする。
ただ、同じように有岡城の後の話になってくるが、福岡の博多の町を整備しようってなった時に、官兵衛殿と三成の2人でうまく連携して、町割りをしっかりやっていくみたいなことをしているので、2人が本当に連携、タッグを組んだら悪くなかったのではないかと信じていまする。
――この時代で他に印象に残っていることはありますか?
この時が三成の主君である秀吉様が浅井家を滅ぼした後で、近江国の長浜城の城主になって、一国一城の城主になってからの、初めてともいえる大仕事をしていた時期。あと、信長公が亡くなった後、天下を取ることになる秀吉様にとっての、城主になった上での最初の大事な任務っていう、そんな時代背景があるんじゃないかってシミジミしております。
【後編】に続く。(6月20日(土)掲載予定)

【石田三成-ZIBU-】
戦国武将「石田三成」に扮し、時事ネタと歴史を絡めた投稿で、現在(2026年6月時点)Xのフォロワー約24万人。 NHK放送「天下人のスマホ」シリーズのスマホ画面監修、著書に「いざ関ヶ原 スマホを持った 石田三成」(KADOKAWA)、「#石田三成のつぶやき」(サンライズ出版)。
『黒牢城』は6月19日(金)より全国にて公開。


