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【映画と仕事 vol.16】「どこにいようとも、人間は孤独であり、常に寂しいもの」―『ウェディング・ハイ』大九明子監督が惹かれるテーマ

映画の世界で働く人々に話を伺う【映画お仕事図鑑】。今回は先日、最新作『ウェディング・ハイ』が公開を迎えた大九明子監督に、日本映画界における女性監督の地位や劇中における女性の描写などについて話を聞いた。

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©️2022「ウェディング・ハイ」製作委員会
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『勝手にふるえてろ』(2017)、『美人が婚活してみたら』(2019)、『甘いお酒でうがい』(2020)、『私をくいとめて』(2020)など、人生の様々な局面でもがき、葛藤しつつ、生きる道を模索していく女性の姿を描いてきた大九明子監督。近年、映画のみならず「時効警察はじめました」、「捨ててよ、安達さん。」、今年1月より放送中の「シジュウカラ」などの話題のドラマに脚本や演出で参加しており「大九監督の作品なら見たい!」というファンも多い。

とはいえ映画界、ドラマの世界全体に目を向けると、大九監督のように毎年のように作品を発表することができている女性監督は決して多いとは言えない。

長く世界で活躍してきた河瀬直美に、2度にわたって日本アカデミー賞優秀監督賞を受賞している西川美和をはじめ、蜷川実花、三島有紀子、タナダユキ、荻上直子、山戸結希……など、独自の世界を紡ぎ出すクリエイターとして、大九監督同様に高い評価を受け、知名度やファンを獲得している女性監督はここ十数年で着実に増えているのは事実である。

その一方で、2000年~2020年の21年間に発表された映画の中で興行収入が10億円を超えた作品は796本で、そのうち女性監督による作品は25本、割合にしてわずか3.1%だったというショッキングな現実も発表された(非営利団体「Japanese Film Project(JFP)」の調査による)。さらに先日、男性映画監督によるキャスティングをちらつかせての性行為の強要・暴行事件が明らかに。女性の地位向上、ハラスメントの根絶、労働環境の改善など映画界が向き合うべき課題は多い。

映画の世界で働く人々に話を伺う【映画お仕事図鑑】。今回は3月が女性史月間(Women’s History Month)であることにちなみ、先日、最新作『ウェディング・ハイ』が公開を迎えた大九監督に、映画界における女性監督の地位や劇中における描写などについて話を聞いた。


「女性監督ならでは」と評価されることへの違和感


――いきなりですが大九監督はご自身が“女性監督”であるということを意識される(させられる)ことはありますか? 批評家や観客から作品について「女性ならではの視点」といった言葉で評価されることも多いかと思いますが…。

私自身が“女性監督”であるということを意識することは全くなくて、というのも、私はこれまで女性としての人生しか送っていないので、私の作品が「女性としての人生を送ってきている私」が作っている映画になってしまうのは必然だと思います。

ことさら「女性監督としての視点を盛り込まなきゃ!」ということを意識することはありませんが、知らず知らずのうちにそうした視点を盛り込んでるところはあると思いますし、あくまでも呼び方として「女性監督」と呼ばれているな…くらいにしか自分の中では捉えていないですね。

――20代後半で映画美学校に通われて映画監督を志した当時は、女性の映画監督の数も現在ほど多くはなかったかと思います。キャリアを積み重ねていく中で、女性を取り巻く環境も少しずつ変わってきたかと思いますが、ご自身の意識にも変化はありましたか?

若い頃はただがむしゃらに自分のことだけをやっていたので、その点については、昔のほうが意識や自覚が希薄だったなと思います。

ただ、本数を重ねてきて、長く映画というものに関わり続けている中で、ふと気づけば、女性で映画監督であるという人間が、男性の映画監督よりも圧倒的に少ないというのを考えさせられるように年々なってきました。そのとき、これは私だけの問題ではないんだといろんなことを受け止めるようになりました。

例えば、あまりに“女性監督”という視点で見られたり、「女性監督ならではの内容になってましたが…」みたいなことを言われる続けることは、果たしてどうなんだろう? と考えたり…。

もちろん一般の観客の方がご覧になって、そう感じるのは自由だと思います。でも、監督と近い立場の人間が、そういった言葉を安易に使っていては、いつまで経っても変わらないなぁというか「そんなに珍しいもんでもないだろ、もうそろそろ」という気持ちになったりしますね。そういう部分に関しては、意識的に変えていかないといけないなという気持ちを抱くようになりました。

――特に何かきっかけがあって、そうした意識や自覚の変化があったのでしょうか?

漠然と「イヤだ」と思っていたことをハッキリと「イヤだ」と言っていいんだということを、世の流れと共に学習してきたということですかね。

作品を依頼されるときに、昔は当たり前のように「女性監督でどなたか探してたんですよ」なんて言われていました。「女性だから依頼されたんだ? へぇ…」という気持ちにこちらがなるということをあんまり考えてないんだろうなぁ…と思っていました。さすがにいまはいないですけどね、そういう言い方をされる方は。

自分がひとりの観客として映画を観る中で「この作品、面白いんだけど、なんかモヤモヤするな…」ということが多々あって、それは女性の描かれ方がすごく偶像的だったり、便利な玩具みたいだったり、神様みたいだったり、お母さんみたいに何でもやってくれる存在になってたり、傷つけられてもにっこり微笑んで許してあげたり…。

せっかくこの映画、面白いんだけど、なんかこの女性の描き方がモヤモヤするなぁ…ということはやっぱりまだまだあって、それに対して「あの映画は面白いんだ」と思って、自分でも気づかないことにしていたのを、気づいた私は「あの描写がイヤだ」と言っていいんだと思えるようになったのは、ここ数年で大きな変化として感じています。

――先ほど、「女性監督としての視点を盛り込まなきゃ!」ということを意識することはないとおっしゃっていましたが、監督の作品には様々な女性が登場しますが、彼女たちは社会のために戦ったり、正義や使命を背負うというよりは、もっと自然体でニュートラルに、自分の幸せを探しているように感じられます。

そうですね。シンプルに「女性である」ということを特に意識していない人間を描いているからこそ、そういうふうに見ていただけるのかなと思います。おっしゃる通りニュートラルにそのひと個人が、幸せになるためだったり、何かの目的のために動いているだけであって「女としてどう見られるか?」ということを意識して生きている人間は一度も描いたことはないですね。

――その一方で、大九監督の作品を観た観客からはよく「なんでこんなに私たちの気持ちがわかるのか?」という熱い共感が寄せられます。監督ご自身はそういった声をどう受け止めていますか?

それがですね、意外と女性からだけでなく、男性からもそういう声をいただくんですよ。「この主人公は僕です!」とか(笑)。老若男女問わず、海外の映画祭でそういう声をいただくことも多いです。

どちらかというと、メインストリームを走らないタイプの人間を描くことが多いので、男性であれ女性であれ自分のことだと感じてくださる方が多いのかもしれませんね。そこに関しても、特に義憤をもってそうした人々を描いているのではなくて、私自身が普段から、そうした人たちのほうに目が行くんですね。

性格が悪いんでしょうけど(笑)、成功者とか、うまいことやってる人にはホントに興味ないんで(笑)。むしろ何か問題を抱えてるような人たちのほうが立体的に見えてきて、そっちに吸い寄せられて、そういう人たちばかり描いてしまうんです。

本当は男性も描きたいんですけどね…(苦笑)。男性主人公の脚本も書いているんですけど、なかなか作品として着地せず、女性主人公のものが多くなってしまっているんです。

――商業映画デビュー作となった新垣結衣さん主演の『恋するマドリ』(2007)の頃から本作『ウェディング・ハイ』に至るまで、登場人物たちが「誰かと生きる」ということ、もしくは「ひとりで生きる」ということを選択するさまを描くことが多いですが、そういったテーマ、題材に惹かれるんでしょうか?

誰といようとも、いつでも圧倒的に孤独を感じている――それは私自身もそうだし、登場人物もそういう人たちが多いですよね。誰かといることが安心ということでは決してなくて、結婚したら、その先にまた別の地獄が待っているわけです。ある作品で、臼田あさ美さんが発するセリフで「ひとは生まれながらのおひとり様なので、誰かといるためには努力が必要だ」という言葉を書いたんですけど、それは身をもってわかっていることであり、その努力は本当に大変なことだなと思います。

私は映画を作るということを通じて、他人とのコミュニケーションを学ばせてもらっているという思いがあるんですけど、「ひとりで生きること」が正解でもないし、「ふたりで生きること」や「群れをなす」ことが正解でもない――どこにいようとも、人間は孤独であり、常に寂しいものだと思います。

質問の答えとして「どういう人を描きたいか?」ということで言うと、満たされていない人を描くということが常にやりたいことなんです。オリジナルの脚本でも原作がある作品でも、書いていくうちにどんどん寂しい人が出来上がっていくんですよ(笑)。

いまも、ある小説を原作にシナリオを描いている最中なんですけど、なぜかどんどん寂しい人になっていく(苦笑)。そういう意味で、ひとりでいようと、誰かといようと寂しい人に安心するんですね、自分で作っていて。

※以下、映画『ウェディング・ハイ』のネタバレを含む表現があります。ご注意ください。

≪映画『ウェディング・ハイ』は、ある一組のカップルの結婚式で次々と巻き起こるトラブルやドラマを様々な視点で描き出したコメディで、脚本をバカリズムが担当。篠原涼子がウェディングプランナーの主人公・中越を演じている≫


主人公のウェディングプランナーにあえて「離婚した」という設定を加えたワケ


――篠原さんが演じた中越は、自分が結婚式を挙げた際の担当のウェディングプランナーの仕事ぶりに感動し、彼女が働く会社に転職し、プランナーになったというキャラクターです。ただ、この仕事に誇りを持つ一方で、中越自身の結婚生活は数年で破綻し、離婚という結末を迎えており、かつて憧れたウェディングプランナーは、上司となったらウマが合わず…ということを告白します。この設定はバカリズムさんの脚本に最初からあったんでしょうか?

離婚しているという設定は、こちらからバカリズムさんにお願いして盛り込んでもらって、その流れの中で、脚本が戻ってきた際に、上司となったプランナーとは仲が悪いという設定も盛り込まれていました。

――先ほどの「人間は常に寂しい」という言葉に通じるというか、この設定にホッとするひとも多いのではないかと思います。

そうかもしれませんね(笑)。作っている人間からすると、何かのプロパガンダで映画を作っているわけじゃないし、どこかのとある人間の人生をブツっと持ってきて描いているというくらいの感覚なんですが、それを観た方が、そこで描かれたことを人生の教科書みたいに思ってしまう向きもあって、それは怖いことでもあると思います。

そういうことを考えたとき、あまりにツルっとした、形の上であまりにうまくいっている人間を提示して終わるってすごく危険だなと思っていて、そういう意味でもちょっとした毒っ気みたいなものを盛り込みたいなと思いました。

些細な設定だし、特に普段の作品であれば、登場人物のひとりがバツイチなんて本当にごく些細なことなんだけど、この映画においては、彼女の仕事がウェディングプランナーであるということがすごく意味を持つなと思ってそうしました。

――『勝手にふるえてろ』でやや自意識の強いヒロインの恋を描き、『甘いお酒でうがい』、『私をくいとめて』では独身、“おひとり様”の女性を、そして『美人が婚活してみたら』では婚活女性を描いていますが、本作ではついに(!)、結婚を迎える人々を描いています。どのような思いで本作に臨まれたんでしょうか?

そういう意味では、“結婚礼賛映画”にしないことですね。ご依頼をいただいて、私がやるなら、こういう作品だなという形が見えてきて、それを面白いと感じていただけるならぜひご一緒したいとお伝えしました。

自分がゼロからオリジナルでこういう物語を作れるかといえばできないと思います。もちろん、笑いの天才・バカリズムさんの書かれた脚本だから、誰にも書けない唯一無二の世界観であることは大前提ですが、結婚式を題材に私がシナリオを書いたら、めちゃめちゃ暗い内容になりますから、絶対に。

スサンネ・ビア監督の『アフター・ウェディング』(マッツ・ミケルセン主演)が、私のベストウェディング映画なんですけどめっちゃ暗いんですよ(笑)。だからこういう陽気な映画に関わるチャンスをいただけたのは感謝しています。

――制作チームの座組という点で、撮影を担当されたのはこれまで監督が何作もご一緒されてきた中村夏葉さん。そして製作陣に4人もの女性プロデューサーが名を連ねています。

そこに関しても、先ほども言いましたように特に「女性が作る映画だから!」ということを意識した部分はないんです。夏葉さんは、何度も一緒にやってきて、お互いに男とか女とかを意識して生きるタイプでもなく、“同志”として組ませていただいています。女性が便利な存在に描かれている部分であったり、夏葉さんも私も「イヤだ」と感じる視点はあるので、そういう部分は絶対に拾いにいかないというコンセンサスは私たちの間でとれています。

夏葉さんは、カメラマンとしての技術や知識があるのはもちろんですが、加えて脚本を読み解く力が素晴らしくて、そこは常に信頼しています。脚本に対してめちゃくちゃツッコミますからね(笑)。変な忖度などなしに、言いたいことをハッキリと言ってくださるので、いい距離感で気持ちよく仕事ができるんですね。

――女性監督と女性カメラマンのタッグとなると、どうしても「女性ならではの感性が光る…」などといった、安易な言葉での評価も多くなるかと思いますが…。

夏葉さん自身、師匠のカメラマンさんが男性だったこともあって「女性らしい画をお願いします」と言われることはないかもしれませんが、評価の際は「女性らしい視点」というのはやはり言われがちですね。そこは、言う人は言えばいいかなというか、不快感というほどの感情はありません。だって私たち、本当に女性なわけで、女性同士で作った作品がこうなっているので、それをどう見るかはやはり見る人次第なのかなと思います。


男性監督による性行為強要事件のニュースに感じた怒りとしんどさ――その先で考えるべきこと

――先ほど「男性も描きたい」とおっしゃっていましたが、どんな男性像を切り取られるのか、見てみたいです。

撮りたいですね。でも、先ほど男性監督が描く女性像にモヤモヤするということを言いましたが、その逆のことを自分がしないように気をつけなくてはいけないと思っています。

女性が抱く“ファンタジー”で男性を便利に描くようなことはしちゃいけない。それはいま地上波でやっている「シジュウカラ」というドラマで、18歳年下の男の子と大人の女性の恋愛を描いてますけど、そこでもすごく気を付けています。若い男の子を餌食にするような、便利な描き方をしちゃ絶対にいけないな、わけもなく恋に落ちて、みたいな描き方は今回は絶対にしないようにするとか。年の差はあっても、大人同士が惹かれ合う理由がしっかりあって、恋に落ちたと。

映画を作るって、必ず傷つく人がいることだと思ってます。何気ない道ひとつを撮っても、そこで誰かが交通事故で死んでるかもしれない。作り手がふとカメラを構えて撮ったもの、それを油断して見てた人が、ここは大事な人が亡くなった道だと思ったらたちまち悲しくなってしまうし、子どもを産めない人の中には、子どもが幸せそうな姿を映画で見たら傷つく人もいるかもしれない。映像って不用意に人を傷つけるものを持っているし、物語なんてなおのことです。大前提として、誰かを傷つけていると自覚してないとやってられない、やってはいけない仕事だと思っています。だからこそ、そこで作り手のエゴになるようなやり方は絶対にしちゃいけないんだとますます思います。

ここ数日、男性監督のすごく不愉快な事件のニュースが流れてきて、本当に頭にきたし、いまも頭にきています。こうしたニュースに触れた時、まさに私自身も「女」として経験して来た様々なハラスメントや、犯罪に巻き込まれそうになった経験をふつふつと思い出してしんどくなります。まず己のしんどさを飲み下して、監督として我が身を律する必要も生じてくる。ちゃんと監督という人間が、自分のことに置き換えて、自分の問題として見ていかなきゃいけない、自分も気を付けていかないといけない問題だと思っています。そこは男性だから、女性だからというのは関係ないと思いますし、気を付けながらも面白いものを地道に作り続けられたら幸せだなと思います。

――最後に映画監督を志している若い人たちへのメッセージをお願いします。

どんどん作ってどんどん恥をかいてほしいですね。恥ずかしいんですよ、ものを作るって。そりゃ誰だって恥ずかしいですよ、自分の中をさらす行為だから。でも、それがだんだん快感になってくるんで(笑)。

いまはまだ下手で当たり前なので、いまの時代、スマホで撮れるんだから、ものを紡ぐということを監督になりたい人はやっておいてほしいです。プロになったら、素敵なカメラマンさんや優秀なスタッフに出会えるし、そういうことは後からその道のプロが助けてくれるので、いまは1本でも多く恥をかいて物語を紡ぐことしてみたらいいと思います。

《黒豆直樹》

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