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隣接する生と死――映画『落下音』を読み解く

百年にわたってひとつの土地を描く『落下音』が公開中。生と死の境界をかき乱しながら、〈幽霊〉の存在をとらえた本作を読み解く。

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『落下音』© Fabian Gamper - Studio Zentral
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百年にわたってひとつの土地を描く『落下音』が公開中。生と死の境界をかき乱しながら、〈幽霊〉の存在をとらえた本作を読み解く。

『落下音』はとある北ドイツの農場を舞台に、約百年間にわたる四世代の少女を映しだす。彼女たちの生活はときに場所を介して、ときに無秩序に、時間を飛びこえてコラージュのようにつなげられてゆく。映画が追うのは二十世紀初頭のアルマ、第二次世界大戦後のエリカ、東西ドイツ時代のアンゲリカ、現代のレンカの四人。改築を重ねたであろうおなじ家に住み、おなじ圏内で生活をしている彼女たちの不安と孤独を見つめ、描きだす。

※以下ネタバレを含む表現があります。ご注意ください。

『落下音』 (C) Fabian Gamper - Studio Zentral

繰り返し語られる“魂の死”

『落下音』© Fabian Gamper - Studio Zentral

「ひとは二度死ぬ」とはよくいったもので、ディズニー映画『リメンバー・ミー』でも一度目の”肉体的な死”のあとの、その存在が忘れられることによる”魂の死”が描かれた。『落下音』もまた二度目の死=”魂の死”を克明に語る。しかし本作が映しだす”魂の死”は、一度目の死=”肉体的な死”を経ていないものだ。まだ肉体は生きているけれども存在を忘れられてしまうというエピソードが劇中反復される。

たとえば現代の場面では、川辺に佇むレンカの妹・ネリーにフォーカスが当てられる。カメラはネリーの背後からぬっと現れ、直前とは打って変わって画面全体にセピア色で濁ったフィルターがかけられたそのフレームは、低空を漂うように進んでゆき、そのさきに寝転ぶ彼女の母の顔を執拗に切りとる。そして画面が切り替わり、ネリーが家族全員に忘れさられ、川辺にひとり置いてきぼりにされる場面へと転換する。タオルを全身に巻きつけたネリーは、そのまま川へと転がり落ち、水中でもがいているところを母が心配そうに駆け寄ってくる、という場面のすぐ直後、ふたたび家族全員に忘れられたその瞬間――ネリーを置いて去ってしまう家族三人の姿を見つめる彼女の姿へと映画は戻ってゆく。たしかにネリーの肉体は生きており、心臓は脈打っているというのに、まるで存在しないものかのように置いていかれた彼女は”魂の死”を経ている。

1910年代を生きるアルマもまた、肉体的には生きているものの魂が死んでゆく経験をする。木登りをして遊んでいたアルマは、地上を歩く家族に声をかけるが彼女たちの反応はない。とうとうアルマは叫び声をもあげるのだが、彼女たちはまったく気がつかずに通り過ぎていってしまう。結局アルマは日が暮れたあとに女中によって木の上で寝ているところを助けられるのだが、そうでなければアルマはそのまま忘れさられ、”肉体の死”を経ないままに”魂の死”を完遂していただろう。

生と死の境目を問い直す“写真”の役割

『落下音』© Fabian Gamper - Studio Zentral

『落下音』はまた、生死の境目というものはほんとうに自明なものなのであろうかと問いなおす。ここで本作は写真というモチーフをくり返し用いている。

まずアルマは、みずからの亡骸のようなものが写った写真を発見し、それを再現すべく人形をとなりに置き、目を閉じる。アルマはみずからの骸を演じて見せるのだ。またそれとは対照的に、台車から落下し亡くなったアルマの姉・リアは、すでに死んでいるのにもかかわらず、瞼を上に縫いつけられまるで生きているかのように装飾されたすえ家族写真に収められる。生きているのに死者の写真のようなアルマと、死んでいるのに生者のようにカメラに切りとられるリア――彼女たちふたりは、写真という事実を客観的に残せるはずのメディアにおいて、生と死の境界を飄々と飛びこえ、ちょうどそれは姉妹がそれぞれ生と死の領域を行き来するような構造となっている。

写真のなかには〈幽霊〉的なものも映しだされている。アルマのような死体が写った写真の上部には、残像によって顔面がふたつに分裂したような人物が写り、また、撮影直前に走りだしたアンゲリカもまた残像によってその姿が確定しない〈幽霊〉として写真に残される。言ってしまえばそれはただのぶれによる残像なのだが、輪郭の確定しないこれらの写真には〈幽霊〉のようなものを感じてならない。

〈幽霊〉を顕現させるカメラワーク

『落下音』© Fabian Gamper - Studio Zentral

『落下音』は見えないはずの〈幽霊〉の存在を強烈に感じさせる映画でもある。身体を分解するかのように部位を接写で撮ったり、鍵穴から覗くPOV(ポイント・オブ・ビュー、一人称視点)手法を用いたり、あるいは遠景から人物へと歩くように近づいていったり、特定の人物の背中を追いつづけたり、とカメラの動きは定まらない。それゆえにいったいいまこの映画はどの視点で映像を語っているのか、“映画の一人称”的なものが行方不明になるのである。

この行方不明の感覚こそが〈幽霊〉を思わせるのではないかとわたしは思う。この屋敷に棲みついた〈幽霊〉が、住人たちの身体を舐めるように見つめたり、とり憑いてかれらの視野を共有したり、あるいは背後霊としてついて回ったり、と不安定なカメラの動きが〈幽霊〉そのものなのである。そしてわたしたち観客もこの映画を見ることによって、〈幽霊〉の一部となり、〈幽霊〉に憑依される。

『落下音』© Fabian Gamper - Studio Zentral

個人的な思い出だが、アルマが曾祖母の手の甲の皮をつまむ場面に、自分自身の祖母の手を思いだした。スクリーンに映しだされたその手は、祖母のそれとそっくりで、いまはもう見ることの叶わない柔らかな手にふれるアルマの触覚を共有しているかのような錯覚に陥った。祖母がまだ生きていたころに一瞬でタイムスリップしたようであり、祖母が突如蘇ってきて隣の席に座っているかのような、わたしが〈幽霊〉であり、そして祖母が〈幽霊〉になって帰ってきてくれたような、とても不思議な映画体験だった。

人間の記憶は脆く、なにもかもすぐに忘れられてしまうが、記憶は土地に沈着し、その土地に取り憑いた〈幽霊〉がその記憶や感情をつぎの世代へと手渡してくれるのかもしれない。一度も出会うことのないアルマ、エリカ、アンゲリカ、レンカの四人が、不安や孤独といった感情をもとに〈幽霊〉によって結びつけられる――それは時を超えて、あるいは生死の境界すら飛び越えて連帯する可能性の提示であり、忘却への祝福であるだろう。

《丹渡実夢》

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