明治初期、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、仏寺や伝統美術が失われようとする中、“アーネスト・フェノロサと岡倉天心”は「日本の美」を救おうと奔走していた。その後天心は、東京美術学校の校長に就任。横山大観、菱田春草、下村観山ら若き才能を育成し、美術界のエリートコースを歩んでいたが、西洋画派との対立により辞任。日本美術院を立ち上げるも、天心が提唱し大観、春草らが編み出した新画法が「朦朧体」と揶揄され、次第に苦境へと追い込まれる。新天地を求めた天心は、茨城県五浦に「六角堂」を建て、日本美術院を移転し、新たな日本画の創造を目指し、壮絶なまでの創作活動に没頭していくのであったが…。
松村克弥