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【玄里BLOG】本から読む映画「王家衛的恋愛」

昨日、何度目かの『グランド・マスター』を観ました。レイトショーで。

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昨日、何度目かの『グランド・マスター』を観ました。レイトショーで。


好きな人が出来る度、「これ以上好きな人はあらわれない」なんて思って

恋が終わる度「もう恋なんてしない(当分)」と思うのに
どうして人は何回も何回も恋をするんだろう。


買ったのは確か高校生の時。
王家衛に浸りたい今月、読み返した本にこんな言葉が。


“恋する人たちは、いつだって恋の相手の心を最後まで完全に解明出来ないし、だからこそ、人は飽きもせず恋に落ちるのだろう”

北小路隆志さん著「王家衛的恋愛」。


ウォン・カーウァイのデビュー作『いますぐ抱きしめたい』から『若き仕立て屋の恋』までを分析し

どうしてウォン・カーウァイの作品が私たち、
いまや一部の“私たち”を惹き付けてやまないのか。

そしてそれは常に「恋はいつ始まって、いつ終わるのか」という問いと結びついているのでした。


“僕らと愛する誰かの感情にはいつも何らかのズレが介在する”。


例えば『恋する惑星』で好きな人が出かけた後そっと部屋へ忍び込むフェイウォンのように。
『花様年華』の、出会った時には既に伴侶がいた二人のように。
『2046』での感情の知覚が遅れてやって来るアンドロイドのように。
『若き仕立て屋の恋』」---チャン・ツェン演じる仕立て屋の見習いが高級娼婦(コン・リー)と“接触”可能になった時には既に、彼女は感染症に蝕まれていた。


“僕らが別の場所と別の時間にあの人に出会えたかもしれないこの可能性は「バラの蕾」---------読まれなかった手紙、伝わらなかった伝言、果たせなかった伝言、失われた記憶-----のまま現実によって無惨にむしり取られ「無の中に」投げ込まれてしまった”。


そうなんです、ウォン・カーウァイの作品には手紙がよく出てきます。新作の『グランド・マスター』にも。

1960年代をモデルにした作品が多いので携帯電話は殆ど役目を果たしません。

この半ば懐かしい宙づり感こそが
『2046』で木村拓哉さん演じる<男>が行ったり来たりした
1968年と2046年の間であり、記憶と忘却の間であり、
“恋愛はいつも中間に生起する、僕がいるだけでもあなたがいるだけでもだめで、僕と誰か、あなたと誰かの「中間」がなければ恋愛は生まれない”。 


恋の、そして王家衛映画の中毒性は“宙づり感”。


“恋を失うことは、その人を残酷なまでに宙づりにし結末のない恋愛の住人にしてしまう”。


では恋愛の始まりと終わりに関して。
“恋愛は誰が始めるでもなく始まり、そして誰の手によっても終わらせることができない。恋愛は主体性の発露ではなく主体性の崩壊である。誰もが、既に知っていることのように”。


一度でも恋を無くしたら最後、人はきっと永遠に「恋の囚われ」で旅人だ、ということかな。追憶する男、と反復=前身する女、というくだりもありました。


最後に、キルケゴールの言葉。
「…期待するには若さがいる。追憶するには若さがいる。しかし反復を欲するには勇気がいる。期待をのみ欲するのは卑怯である。追憶を飲み欲するのはみだらである。しかし反復を欲するのは男である」。


表紙になっている『若き仕立て屋の恋』。
『愛の神、エロス』という短編オムニバスに入っているのですが
圧倒敵な完成度。未見の方は是非。


どこかの劇場で、王家衛特集上映…なんてやってくれないかな。
毎日通うのに。オールナイトでも良い。昼じゃなくて、夜に観たいな、ひっそりと。
《text:Hyunri》

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