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【映画と仕事 vol.18】“作る”側と“届ける”側の垣根を超えて世界へ羽ばたけ!『シャイニー・シュリンプス!』続編に日本人プロデューサーが名を連ねているワケ

映画の仕事に携わる人々に話を聞く【映画お仕事図鑑】。第18回目となる今回は、実在するゲイの水球チームをモデルにしたフランス映画『シャイニー・シュリンプス!世界に羽ばたけ』で共同プロデューサーを務めた小田寛子氏に話を聞いた。

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『シャイニー・シュリンプス!世界に羽ばたけ』小田寛子プロデューサー
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  • (C)2022 LES IMPRODUCTIBLES - KALY PRODUCTIONS - FLAG - MIRAI PICTURES - LE GALLO FILMS
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フランスに実在するゲイの水球チーム「シャイニー・シュリンプス」をモデルに、アマチュア水球チームの奮闘を描き、本国フランスで大ヒットを記録し、日本でも話題を呼んだ『シャイニー・シュリンプス!愉快で愛しい仲間たち』。その続編となる『シャイニー・シュリンプス!世界に羽ばたけ』が先日より公開されているが、本作の制作スタッフに“共同プロデューサー”として名を連ねているのが小田寛子氏だ。

映画の宣伝・配給などを手がける「株式会社フラッグ」に新たに設立されたグローバルコンテンツ部で働く小田さんだが、学生時代はカナダで映画制作を学び、帰国後は複数の配給会社で主に海外作品の買い付けや配給業務を担当してきた。

そんな彼女がなぜフランス映画の共同プロデューサーに…? 映画界の様々な仕事について紹介していく【映画お仕事図鑑】。映画を“作る仕事”と完成した映画を“観客に届ける仕事”という、従来は別々のものだった業務の垣根を飛び越えた、新たな時代の映画のお仕事について話を聞いた。

カナダへの映画留学、帰国後の映画業界への就職


――学生時代はカナダに留学されて映画制作を学ばれていたそうですね?

私は福岡県の北九州の出身なんですが、もともと映画が好きだったものの、周りに映画を仕事にしている人が誰もいなかったんですね。父の影響で洋画が好きだったこともあってか「東京で映画の仕事をしたい」というよりも「海外に行きたい」という思いが強かったんです。ただ、父からは「大学受験から逃げるな」と言われまして…(苦笑)。いったん、地元の大学に入学したんです。

たまたま大学の友人で「カナダに留学する」という子がいたんですけど、私が高3の時に「9.11」が起きたこともあって「アメリカに行きたい」と言いづらいこともあったし、当時はカナダドルも安くて、カナダは“ノースハリウッド”と言われてハリウッド映画の撮影が多く行われるようになっていて、留学先としてカナダに注目が集まっていたんです。

それで、いったん、ワーキングホリデーでカナダに渡り、気になっていた大学の映画科の夜間コースの試験を受けて、その後その大学の映画科に入学しました。

私が入学したのは「Capilano University(キャピラノ大学)」という学校の映画制作学科で、実践的に映画づくりについて勉強をするという感じで、講師も最近まで現役バリバリでしたという撮影監督や助監督の方が多かったです。周りの生徒も「映画理論を学びたい」というより、「映画の現場で働きたい」という人間が多かったですね。

ワーホリの期間も含めると、カナダには4年ほどいました。当時、映画の撮影がカナダで行われることが本当に多くて、インターンという形で現場に入らせてもらってアシスタントをやったり、エキストラをやりながら現場を見る機会も多くありました。あとは、学校で短編映画を作る際も、ヒマな時期であれば、講師のツテでプロの方たちが参加してくださったりして「X-ファイル」に入られていたスタッフさんが、私たちの短編のサウンドミックスを担当してくれたりすることもありました。講師の方を含めて“THE 現場”の人たちと触れ合う機会が持てて、留学先として選んで正解だったなと思います。

――当時はその後の進路、就職などについてはどのように考えていらしたんでしょうか?

映画留学している人間って、みんな「とにかく映画に関わる仕事がしたい」と思ってるし、特に最初は「監督になりたい」って思っている方が多いと思います。1年目に「監督になりたい人?」と聞くと9割くらいの手が上がるけど、3年目くらいになると監督志望者は減ってきて「俺は照明がやりたい」とか「衣装がやりたい」ということで専門の学科に行く人も増えていくんですね。

私も途中で「プロデュースをやりたいな」と思うようになりました。脚本に書いてあることを映像にする才能が監督に必要だとすると、それは自分にはないんじゃないか? どちらかと言うと才能がある人を集めて、進める製作のほうが向いてるんじゃないかと思ったんですね。

映画学校ってどうしても自分たちで「作る」だけで終わってしまいがちなんです。せいぜい映画祭に出品して…という感じで、カナダ、特にバンクーバーには配給会社が多いわけでもなかったので、作った後にどうしたらいいのか? という部分でフラストレーションがありました。

同時に映画学科の留学生の中で唯一の日本人ということもあって、日本の映画業界について周りにすごく質問されることが多かったんですけど、なんせ“北九州→カナダ”なので何もわからない…(苦笑)。加えて、カナダ人であればもらえる助成金システムなどもあるんですが、私はそこにはアクセスできないので、私の“強み”と言えるものを活かせるようにならないといけないと思い、日本に帰ることを決めました。

――帰国後、どのように映画業界で働き始めたんでしょうか?

東京に出てきたものの、時期的にも一般的な就職活動の時期とはズレていたので、いわゆる就活みたいなことはできず、外配協(外国映画輸入配給協会)に載っている配給会社に片っ端から履歴書を送ったり、電話をしたりして、プレシディオという配給会社にバイトで入社しました。

最初は洋画の買い付けをしているチームのアシスタントとして資料を整理したり、作ったりしていました。その後、自分でも買い付けをやらせていただけるようになって、洋画を買ってくるという仕事に加えて、買った後の二次使用権(ビデオグラム権や配信権)をメーカーさんに営業して売るということもやっていました。

その後、TSUTAYAでおなじみのCCCグループの会社で、TSUTAYA独占レンタルの映画の買い付け業務などをやって、それから日活に移り、そこでも基本的に買い付けと配給宣伝の進行管理、二次使用権の営業などをやっていました。

帰国して働き始めた当初は、いわゆる社会人としての常識や教養が全くない状態で(苦笑)、請求書の書き方や資料を作るのに必死だったんですけど、20代後半になるにつれて、いろいろ変化もありまして。

面白いことに、カナダで映画を“作る“ことを学んでいた頃は、作品を“世に出す”ことを勉強したいと思ったんですが、逆に作品を世に送り出すことを仕事でずっとやっていると、今度は「もっと作る側に関わりたい」という思いがまた芽生えてくるんですね。日活に入社する際も、日活は映画を「作る」仕事もしている会社なので、その部分に魅力を感じて入社を決めました。

その後、広告代理店の配給レーベル立ち上げの手伝いをしたり、フリーランスで映像制作などにも関わっていたのですが、2018年に現在のフラッグに入社しました。フラッグはずっと映画の宣伝事業をやってきた会社ですが、配給事業への進出や制作事業のグローバル化を考えていて、私も配給だけでなく海外との共同製作に取り組みたいという思いがあり、入社しました。

最初はこれまでのような買い付けの仕事や配給、それから共同事業のためのパートナーさんの営業などをメインでやっていましたが、その後、バイリンガルの映像制作スタッフを採用し、現在は買い付け、配給、それから映画だけでなく、海外向けのCMなどを含めた映像制作の仕事をやっています。


《黒豆直樹》

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