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【MOVIEブログ】2015 ワールドフォーカス注目作(その2)

開幕直前!前回のブログでは「ワールド・フォーカス」部門のコメディドラマを紹介したので、今回は巨匠系で行きます。

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『ミューズ・アカデミー』 (c)Los Films de Orfeo
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開幕直前!前回のブログでは「ワールド・フォーカス」部門のコメディドラマを紹介したので、今回は巨匠系で行きます。

「ワールド・フォーカス」部門は、海外映画祭の受賞作や、有名監督の新作などの中から、8月31日現在で日本での劇場公開が未定の作品を選んでいるので、これから公開が決まってくる作品もあれば、映画祭での上映が唯一の機会となる作品もあります。つまりは、見逃せない作品ばかりという部門です。

『ミューズ・アカデミー』
まずは、久しぶりのホセ・ルイス・ゲリン監督新作。日本におけるゲリン初紹介となった『シルビアのいる街で』('07)以来、『ゲスト』(’10)、『メカス×ゲリン 往復書簡』('11)の3本を東京国際映画祭でも上映してきましたが、『ミューズ・アカデミー』は4年振りの長編ということになります。

ゲリン映画祭が東京で開催されたこともあり、シネフィルの間で知名度は確立された感がありますが、ゲリン未体験の人には、少し敷居が高い印象を与えているかもしれません。しかしそれはあまりにもったいない。未見の方にこそ、この機会にゲリンを「発見」して頂きたいと強く思います。

もっとも、僕が今回ウェブに書いた作品紹介文がいささか固すぎたかもしれないとの反省もあり、ハードルを上げているのは自分ではないかと責任も感じています。紹介文の末に書いた「哲学的思考の射程を日常レベルで測り、下世話に堕ちずに映画の美を高い次元で達成するゲリンの新たな傑作」なんて、自分の文章に酔っているとしか思えず、いまとなってはとても恥ずかしい。批評を書いているのではないのだから、紹介文はもっとシンプルさを心がけないといけないですね。

さて、シンプルにゲリンの面白さを伝えるにはどうすればいいだろう。まずは、商業映画の監督ではなく、芸術家であることに自覚的な映画作家である、ということを大前提としてもいいかもしれません。ただ、アートであれば何でもいいと思っている芸術家ではなく、映画愛は極めて強く、映画の美をとことん信じている監督です。難解な抽象映画を作るわけではなく、映画美至上主義。その美しさには色々な側面があり、そよ風を撮るような詩的な美しさであったり、女優の美しさだったり、ショットの構図そのものの美しさだったりします。デビュー時から『シルビアのいる街で』あたりまでは、映画の美とは何かを追求したような作品群が続いていたという印象があります。

さらに、ゲリンの大きな特徴としては、ドキュメンタリーとフィクションの境目が無いことが挙げられます。もちろん、それはゲリンの専売特許ではないものの、彼のドキュメンタリーには常にフィクションの遊び心が入り、逆にフィクションとされているものにはドキュメンタリーのリアリズムが軽やかな形で紛れ込んでいます。ポエティックなリアリズム、というのは矛盾した言葉つなぎかもしれませんが、僕がゲリンのことを考えると浮かぶのがこの言葉です。

『ミューズ・アカデミー』は、ゲリンが新境地に入っていったような作品です。映画美の探究は、ずばり女神の探究という映画のテーマへと昇華し、ドキュメンタリーとフィクションの境界の消滅が一層進んでいます。ゲリンは大学の哲学科の教授に本人役を演じさせ、現実の大学の講義を見せるようでいて、少しずつフィクションの断面を覗かせ、観客を摩訶不思議な世界に誘うのです。

文学上の「女神論」を講じる教授と、彼に師事する女性の受講生たちの関係、そして教授と妻との関係を描き、哲学世界の議論と、現実世界の行動との倫理的な境界線を考察していきます。もちろん、フィクションとドキュメンタリーの境目があいまいであるように、哲学と現実の境界線もあいまいになっていきます。ことほどさように、こちらの思考を色々な意味で引っ掻き回してくれるのが、なんとも刺激的で、なんとも気持ちいいのです。

「哲学的思考の射程を日常レベルで測り、下世話に堕ちずに映画の美を高い次元で達成するゲリンの新たな傑作」という一文で何が言いたかったかというと、「哲学の教授が語る哲学的思考は、現実レベルで通用するのか?」ということと、「高尚な議論を展開する哲学の教授がただのエロ親父だったら?」という身もフタもない「もしもの世界」を、「映画の美」の追及の中で描くと言う、アクロバティックな離れ業を成功させている、ということです。

余計分かりにくいかな? ともかく、なかなか普段お目にかかることのできないタイプの作品であることは間違いないです。熱心な映画ファンには是非駆けつけて頂きたいですし、そして繰り返しますが、ゲリン未体験の方にこそ見て頂きたい1本です。

『ジャクソン・ハイツ』
今年の「ワールド・フォーカス」部門のみならず、映画祭の全作品の中でもハイライトの1本が、フレデリック・ワイズマン監督の新作『ジャクソン・ハイツ』でしょう。

ゲリン同様、知っている人には説明不要、知らない方は全然知らない、という存在がワイズマンです。なので、知らない人が運良く(悪く?)このブログを読んでいるかもしれないことを期待して、ワイズマンを紹介します。

フレデリック・ワイズマン、ドキュメンタリー映画の巨匠中の巨匠中の巨匠です。最も好きな映画作家をひとり挙げろと言われたら、僕はひょっとしたらワイズマンの名を挙げるかもしれない。ひとつのジャンルにおいて唯一無二のスタイルを築き上げたという意味で、あまりにも偉大な存在です。

そのスタイルとは、最小限のクルーで、作品の対象のあらゆる面にキャメラを向け、インタビューなし、ナレーションなし、テロップなし、音楽なし、というもの。あまりにもストイックなので、最初は戸惑うかもしれませんが、慣れていくうちに、これこそが映画だと確信するようになり、やがて他のスタイルのドキュメンタリーが受け付けられないほどの中毒になり、そして崇拝の対象となっていくのがワイズマンです。人為的な説明を加えることなく、全てをショットと編集とで描き切り、圧倒的な刺激と満足感を与えてくれるのがワイズマンで、このスタイルは日本では想田和弘監督が「観察映画」と名付けて継承しています。

ワイズマンが選ぶ対象は、アメリカの様々な施設や制度(精神病院や、精肉業者や、デパートや、モデルや、動物園や、臨死現場や、DV裁判等々、無数)から、各国の団体(フランスのキャバレーやオペラ座、イギリスの美術館等)など多岐にわたり、独自のチョイスと視点とで「現在」に視線を注いでいきます。

例えば、デパートであれば、売り場、お客、売り子、清掃、経営会議、搬入、搬出、など、ありとあらゆる現場をキャメラに納め、長時間を1秒も飽きさせずに見せる神業の編集により、デパートという集合体の実像をスクリーンに再現して見せます。長時間、というのがワイズマンの個性のひとつで、それは映画という媒体にのみ(そして一部の監督にのみ)許された特権であり、ワイズマン映画にじっくりと向き合うことは、特権的な時間を過ごすということに他なりません。

ワイズマン映画に抽象はなく、あるのは具体の積み重ねです。清掃員の姿(『動物園』)、裁判官の態度(『DV』)、解体される牛(『肉』)。それは誰もが見ようと思えば見ることの出来る具体的事柄です。しかし、制度や施設の全体像を同時に見ることは誰にも出来ないし、そもそも「全体像」という言葉自体が抽象的概念かもしれません。具体の集積で、全体像という抽象を体験させてくれるのがワイズマン映画だと言ったら、単純化し過ぎでしょうか。

さて、1930年生まれのワイズマン監督の記念すべき40本目の作品が、『ジャクソン・ハイツ』です。NYのクイーンズ地区にあるジャクソン・ハイツ区。人種のるつぼと言われるNYの中で、さらに最も多くの人種が暮らす街として有名なのがジャクソン・ハイツであり、なんと167の言語が話されているというのだから驚きます。過去の39本と同様(正確に言うと2本だけフィクションがあるので37本)、ワイズマンはジャクソン・ハイツのあらゆる面にキャメラを向けて行きます。その徹底ぶりは本当に圧巻で、キリスト教の境界、ユダヤ教のシナゴーグ、イスラム教のモスク、南米系コミュニティー集会、パブ、アメリカの市民権が欲しい理由を聞かれた時の英語の答え方を中国系移民に教えるレッスン、商店街の経営者、公園、街の有力者、ショッピングモール、クラブ、政治家、ペット美容室、老人たちの集会、もうありとあらゆる街の姿。

すげえなあ、と思いながら見ているだけでいいのですが、やはり40本目としてジャクソン・ハイツを取り上げたワイズマンの真意を想像することも重要だと思います。移民や難民を巡る状況が世界を揺るがせている中(コンペティションにもその状況を反映した作品が数本ありますが)、あらゆる人種と宗教とセクシャリティを飲みこんだ街であるジャクソン・ハイツに焦点を当てたことはやはり偶然ではないはずです。キャリア40本目にして、限りない現在性を備えた、最重要作品の1本であることは間違いありません。

ただ街の姿を映しているだけなのが、どうしてこれほど面白く、どうしてこれほど重要に思えてくるのか。映画の不思議が詰まっているともに、本当にワイズマンの映画を通じてのみ体験できる時間がここにはあります。ワイズマン作品は、キャバレーや美術館のような題材以外では劇場公開がなかなか難しいので、本作も映画祭での上映が貴重な機会になってしまうかもしれません。

ワイズマン未体験のみなさま、40本目での「発見」でも全く遅くありません!いまこそワイズマンを!
《矢田部吉彦》

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